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2007年09月25日

ヴェネツィアに行ってみましょう

ヴェネツィアに行ってみましょう

ヴェネツィア( 伊:Comune di Venezia)は、イタリアの北東部に位置するコムーネで、ヴェネト州の州都、ヴェネツィア県の県庁所在地である。

中世にはヴェネツィア共和国の首都として盛えた都市で、「アドリア海の女王」「水の都」「アドリア海の真珠」など、数々の名声を我が物にしてきた。

古来はラテン語でウェネティ人の土地を意味し、ウェネティ人が住んでいたアドリア海の奥に拡がる土地をウェネティア(Venetia)と呼んだ事から来ている。この綴りをそのままイタリアでのラテン語の読み方に従うとヴェネツィアとなる。英語でヴェニス(Venice)、フランス語でヴニーズ(Venise)、ドイツ語でヴェネーディヒ(Venedig)と呼ばれる。漢字ではヴェニスを音訳して威尼斯と表記する。ヴェネツィア方言では同音でVenezsiaと表記される。

日本語では表記の揺れが激しく、イタリア語から来たものでもヴェネーツィアを始めとして、ヴェネチア、ベネチア、ベネツィア果てはベネティア、ヴェネティアなどもある。英語由来ではヴェニス、ベニスなどと書かれる。救いはまぎらわしい地名がないことである。

アドリア海の最深部、ヴェネツィア湾にできた「ラグーナ(潟)」の上に築かれた、運河が縦横に走る水の都である。

ヴェネツィア本島は大きな魚のような形をしており、その真ん中を逆S字形に「大運河(カナル・グランデ)」が流れている。また、島のあちこちを細い運河が流れており、本島全体が小さな島々から出来ている。運河には大小の無数の橋がかかっており、また地上には狭い道路が迷路のように巡っている。

ヴェネツィアは、セスティエーレと呼ばれるそれぞれが、ドルソドゥーロ(Dorsoduro)、サンタ・クローチェ(Santa Croce)、サン・ポーロ(San Polo)、サン・マルコ(San Marco)、カンナレージョ(Cannaregio)、カステッロ(Castello)という地区に分れている。

本島のすぐ南には、「サン・ジョルジョ・マッジョーレ島」「ジュデッカ島」、さらに南に下ると映画『ベニスに死す』で有名な「リード島」がある。また、本島のすぐ北には、墓地となっている「サン・ミケーレ島」、さらに北にはヴェネツィアングラスで有名な「ムラーノ島」、レース編産業の地「ブラーノ島」、そして、もっとも古い時代に栄えた「トルチェッロ島」がある。

干潟に建物を建てるため、大量の丸太の杭を打ち込みそれを建物の土台とした。そのため、ヴェネツィアを逆さまにすると森ができる(地中に丸太が乱立するがごとく大量に打ち込まれたため)、と言われている。

かつては海上に浮かぶ孤島であったが、オーストリア帝国治世下の1846年にイタリア本土との間に鉄道が引かれ、後に自動車用道路の「リベルタ橋」も引かれ、イタリア本土との往来は容易である。ただし、ヴェネツィア本島内は車での移動は禁止(自転車を含む。乳母車、車椅子は可)されているため、自家用車はリベルタ橋をわたったすぐにある「ローマ広場」の駐車場に置いて、島内を徒歩か船舶で移動することになる。

車が入れないために、また、運河が発達していることもあり、主な交通機関は必然的に船になり、水上路線バスの「ヴァポレット(Vaporetto)」や水上タクシーの「モトスカーフィ(Motoscafi)」、大運河の岸と岸を渡る渡し舟「トラゲット(Traghetto)」が、大運河、および、ヴェネツィア湾内を縦横無尽に走っている。警察もボートで警邏を行う。また、運河に面した玄関を持つ建物も多い。なお、ゴンドラと呼ばれる手漕ぎの舟が有名だが、現在では一部の渡し舟を除き観光用途で運行されている。

大潮、気圧の変化、そして、アドリア海を南から吹く風「シロッコ」の3つの要因が重なると、「アクア・アルタ(acqua alta、高水の意)」と呼ばれる高潮がヴェネツィア湾で起こる。このとき、ヴェネツィアの街中まで水が入り込み、特に一番低い「サン・マルコ広場」は水没する(広場や道路には臨時の高床が組まれ、通行を確保する)。過去に北の対岸の本土マルゲーラ地区で工業用の地下水のくみ上げが行われたことにより地盤沈下が起こり、アクア・アルタによる洪水の水位が1m以上になったこともある。更に今後の地球温暖化によって海面上昇が加速されることとなれば、将来ヴェネツィアの街全体がアドリア海に水没してしまうことが懸念されている。水没を防ぐために、アドリア海との間に3カ所の水門を設けるモーゼ計画が提案されたが、環境やヴェネツィアの潟に与える影響が懸念され、市長や多くのヴェネツィア市民の反対もあり、現在では白紙状態である。

ヴェネツィアの土地は、大陸からの川の流れに乗ってくる土砂、そしてアドリア海の波と風の力によって作られた湿地帯である。

元々はただの湿地帯だったが、6世紀頃に東方からゲルマン系諸族やフン族がイタリア本土のヴェネト地方に侵入してきたため、住民がこの湿地帯へと避難してくることから歴史が始まる。この時避難してきた先が現在の「トルッチェロ島」である。足場が悪い湿地帯のため、侵入者は追ってくることが出来ず、避難した人々はここに暮らし続けるようになる。干潟に住むメリットを保つため、干潟を荒らしたり干拓したものを極刑にする、という法を作ったり、普段は船が通れる道を杭で示していたが非常時にはその杭を抜く、など、干潟を守り、かつ、有効に利用していた。

アドリア海沿岸地域は元々東ローマ帝国の支配下にあるため、ヴェネツィアも同じように支配されていたが、697年、初代総督を選出して独自の共和制統治が始まる。

9世紀始め、フランク王国がヴェネツィアを支配下に置こうとして軍を派遣、そのため、トルッチェロにいた人々は更なる避難を余儀なくされ、現在のヴェネツィア本島へと移り住むことになった。このときにたどり着いたのが今の「リアルト地区」である。

810年に東ローマ帝国とフランク王国との間で結ばれた条約で、ヴェネツィアは東ローマ帝国に属するが、フランク王国との交易権ももつこととなり貿易都市への布石が置かれた。

このころ、ヨーロッパ各国では、その国の存在をアピールする目的でその国の守護聖人を求める風潮にあった。ヴェネツィアも同様に守護聖人を求めていたところ、福音書著者聖マルコの遺骸がエジプトのアレキサンドリアにあり、イスラム教徒に奪われる恐れがあることを聞きつけ、828年、それを奪い取りヴェネツィアに運んだ。この時よりヴェネツィアは聖マルコを守護聖人とすることになった。

10世紀後半からはイスラム諸国とも商業条約を結び交易を拡大した。さらにアドリア海沿岸への支配地域の拡大に努めていった。ジェノヴァなどの同じイタリアの貿易都市とは違い、都市の周辺海域が大国・東ローマ帝国の制海権内にあったために、イスラム勢力による海上からの直接的脅威を感じることが少なかったことも、イスラム諸国との関係を積極的に進める要因となった。

11世紀に、弱体化した東ローマ帝国の要請でアドリア海沿岸の海上防衛を担うことになり、その代償としてビザンティン内での貿易特権を得た。その後の十字軍遠征と、それに伴うアジアとの貿易との拡大によって、ヴェネツィアは勢力を拡大した。

1204年、第4回十字軍とともにヴェネツィア艦隊は東ローマ帝国首都のコンスタンティノープルを攻略、援助への代償としてクレタ島などの海外領土を得て東地中海最強の海軍国家となり、アドリア海沿岸の港市の多くがヴェネツィアの影響下におかれた。東地中海から黒海にかけての海域が、いわば「イタリア商人の海」ともいうべき状況になったことは、おなじ13世紀に、ヴェネツィアのマルコ・ポーロが黒海北岸から中央アジアを経て元へ向かうことを容易にさせた。

15世紀になるとオスマン帝国の進出により、ヴェネツィアの海外領土が少しずつ奪われていき、勢力にもかげりが見えてきた。1538年におけるプレヴェザの海戦で、ほぼオスマン帝国は地中海の制海権をおさえ、さらにヴェネツィアにとっての圧力となった。その上、大砲の登場により干潟に住むメリットが無くなってしまった。更に、貿易の対象がアジアに移ったことや、アメリカ大陸や日本の発見により、貿易の舞台はアドリア海から大西洋や太平洋に移り(大航海時代)、ヴェネツィアの貿易に対する影響力は低下していった。これに対してヴェネツィアはガラスやレースなどの工芸品を作ることで対処した。

1797年、ヴェネツィアはナポレオン・ボナパルトに侵略され、1805年にナポレオン支配下のイタリア王国に帰属、1815年にはオーストリアの支配下(ロンバルド・ヴェネト王国)に置かれるようになった。オーストリアは、港湾都市としてヴェネツィアよりトリエステを重視したため、ヴェネツィア経済は衰退した。1848年に共和国は一時復活したが1849年にオーストリアの攻撃により降伏した。1866年に普墺戦争がはじまると、イタリア王国はこれを第三次イタリア統一戦争としてオーストリアに宣戦布告し、この結果ヴェネツィアとヴェネト地方はイタリア王国に編入された。

1987年、世界遺産(文化遺産)に『ヴェネツィアとその潟』として登録された。

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